偽善者と呼ばれても構わない。言葉の力を信じているから。

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「アンタは恥ずかしがりもせず、良くそんな事を言えるな。」

昔から親しい友人に良く言われていたセリフ。本人は昔から何も意識していないので恥ずかしい事を言っている自覚は全く無い。

 

先日、Twitterを眺めていると偶然流れてきた1通のツイート。その方は酷く落ち込んでいる様子だったので、少しでも気分転換になればと思いTwitter上で少しやり取りをさせて戴いた。

別にやましい話をしている訳では無いので、ツイートの返信という形で行ったやり取り。当然、フォロワーには表示される。やり取りを見たであろう人から「責任の伴わない優しさを振りまく行為は、ただの偽善」だと吐き捨てられた。

偽善とはなんだろう

偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。

また、これを行う者は偽善者とよばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。

腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。引用:偽善 – Wikipedia

偽善とは「自身の利益のために、人の為を偽って行う事」を表す言葉です。

 

この文章を読んだ私の素直な感想は「何々?ブロガーの話?」でした。

ブログ運営とは、金銭目的では無いと偽ることをいう。

また、これを行う物はブロガーとよばれる。外面的には善い記事に見えても、それが本心や良心からではなく、アドセンスやアフィリエイトなどから収益をあげる事を指している。

腹黒い・ゴマすりなどを隠しきれない記事もある。引用:三十路男の悪あがき

 

想像以上に偽善とブロガーの置換がしっくり来すぎたので、少し話が脱線しましたが要は「私が送ったツイートは、利益の為に相手を心配していると偽って送った。」そうゆう事ですね。

 

「偽善行為 < 見て見ぬフリ」という病んだ発想

偽善という言葉を使う人は「偽善行為 < 見て見ぬフリ」という定義が成り立っているとしか考えられない。事実、反応したのは私ひとりだったのだから。

 

見て見ぬフリの中には【善】は含まれません。当然言葉を発さないので【嘘】もありませんが、それは決して褒められた物だとは思いません。

偽善であれなんであれそこに【善】が含まれ、その言葉の中に【嘘】が無ければ、それは決して【何もしない人】に否定される様な事では無いと思うんです。

言葉の力を信じているからブログを書いている

塾の講師時代、多感な年代の生徒を通年で教えきる事は容易では無く、常に一定以上のパフォーマンスを発揮出来る様、勉強を教えるよりも先に精神状態を常に安定させる事から教えました。

そこに必要なのは行動よりも、思いと経験が詰まった言葉

 

思いが伴わない言葉は相手に届かない

経験が伴わない人の言葉は響かない

塾の講師という仕事を通じて私が生徒から学んだ事です。

 

自身の不妊経験から同じ体験をしている人への思いがあるから記事を書く。観光地へ出掛けた経験を誰かと共有したいという思いがあるから記事を書く。ブログとは多くの人に見て貰う事で、文字で構成された自分の経験や思いを伝える媒体であり、ブログを書いている人は決まって「言葉の力」を信じている人だと思っています。

 

その為、ブロガーから【偽善者】という言葉が出たのは意外でした。

 

私はこれからも偽善者で居続けようと思う

私がTwitter上で行ったやりとりは、善意という意識も無く

相:明日、雨らしいで!

私:え、怠いな!

そんな会話をするのと同じ。そこに善悪は関係無い。

 

相手の発言に対して自分の言葉を偽りなく伝えただけ。

 

思いを表した言葉が例え照れ臭い内容であっても、書き換える事で「自分の言葉を偽る行為」になってしまう為、相手が真剣であれば絶対に思いを曲げずに有りの儘の言葉を送る。

そこに【善】があり【嘘】が無いなら、私は【偽善者】と呼ばれても構わない。

 

私はこれからも偽善者で居続けようと思う。